東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
春のポルトガル
(1998年5月)
ポルトガル略年表 - 6. 大航海時代
- 1411年、ポルトガルとカスティリアとの間に講和条約が成立。
- 1415年8月、ポルトガル王ジョアン 1世とエンリケ航海王子を含む 3人の王子の指揮する大艦隊が、北アフリカのセウタを占領した。
- 1418年、ポルトガルがマデイラ諸島に進出。
- 1427年、ポルトガルがアゾレス諸島に進出。
- 1433年、ポルトガル王ジョアン 1世が死去。王位を継承したのはドゥアルテ 1世だった。
このドゥアルテ 1世は、バターリャの勝利のサンタ・マリア修道院に王のチャペルを建てようとした人物。但し、この王のチャペルは、完成されることはなかった。
- 1437年、積極派のエンリケ航海王子は、慎重派のドン・ペドロ王子の反対を押し切り、北アフリカのタンジールに兵を送ったが失敗。
- 1443年、ポルトガルは西アフリカのアルギンに到達。ポルトガル勢力は、更に西アフリカの沿岸を南下した。
- 1447年、西アフリカで獲得した金により、ポルトガル王国でクルザード金貨の鋳造が始まった。
- 1460年、ポルトガルの大航海時代を切り開いたエンリケ航海王子が死去。
- 1469年、西アフリカの開発の権利がフェルナン・ゴメスに与えられた。
- 1471年、タンジールを占領。
- 1474年、フェルナン・ゴメスに与えた西アフリカ開発の契約が終了。ポルトガル王室は、西アフリカの交易を独占することとした。
- 1476年、ポルトガルがカスティリアの王位継承問題に介入し、トロにおいてイサベルの軍と戦った。
- 1487年、ポルトガル王ジョアン 2世は、バーソロミュー・ディアスをアフリカ南端の探検に派遣した。
また、ジョアン2世は、パロ・ダ・コヴィリャンを陸路によりインド・中東に派遣し、情報を収集させている。
- 1488年、バーソロミュー・ディアスが喜望峰を発見。彼はインドまで航海を続けようとしたが、乗組員の反対により帰国を余儀なくされた。
- 1492年、スペイン(アラゴン・カスティリア連合王国)がグラナダを征服し、イベリア半島におけるレコンキスタ(国土回復運動)が終わった。
同年、新大陸を発見したコロンブスがリスボンに立ち寄り、ポルトガル王ジョアン 2世に謁見している。
- 1494年、トルデシリャス条約が成立。西経 46度 30分より東をポルトガルの勢力範囲、西をスペインの勢力範囲と定めた。
- 1495年、ポルトガル王ジョアン 2世死去。王位を継承したのは、後にジェロニモス修道院(リスボン)を建てることになるマヌエル 1世だった。
- 1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマ指揮下の 4隻の船がリスボンを出発した。
同年11月22日、ヴァスコ・ダ・ガマ艦隊は喜望峰を越え、アフリカ東岸を北上し始めた。
- 1498年5月20日、ヴァスコ・ダ・ガマ艦隊がインドのカリカットに到達した。(同じ年にダ・ヴィンチが「最後の晩餐」を描いている。)
- 1499年8月、ヴァスコ・ダ・ガマ艦隊がリスボンに帰還した。
- 1500年、ペドロ・アルヴァレス・カブラル指揮下の12隻の艦隊がリスボンを出発。
同年4月22日、カブラル艦隊がブラジルを発見した。
- 1505年、ポルトガルの初代インド総督となったフランシスコ・デ・アルメイダは、軍事的な拡張政策をとり始めた。
- 1509年、ポルトガル艦隊がエジプト・トルコの連合艦隊を撃ち破った。
更にポルトガル艦隊は紅海の入口にあるソコトラ島を占領し、紅海経由での香辛料の取引を抑圧することに成功した。
- 1510年、2代目のインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケがインドのゴアを占領。ゴアはポルトガル領インド帝国の首都となった。
- 1511年、ポルトガルがマラッカを占領。極東への進出が可能となった。
- 1521年、スペイン王カルロス 1世の支援を受けたマゼラン艦隊が香料諸島に到達。その後、世界周航を成し遂げた。
- 1529年、スペインのカルロス 1世とポルトガルとの間でサラゴサ協定が成立。
ポルトガルがスペインに35万ドゥカートを支払うことを条件に、スペインは香料諸島に関する権利を放棄することが定められた。
- 1538年、オスマン・トルコが紅海沿岸のアデンを占領。香辛料取引の紅海ルートが再開され、やがてヴェネツィアによる香辛料取引の復活につながった。
- 1543年、3人のポルトガル人が日本の種子島に漂着した。
- 1557年、ポルトガルは中国のマカオを獲得した。
- 1570年、次第に衰退していく香辛料取引の王室独占を諦め、契約によって民間商人に委ねる方式を採用した。
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