東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

ヴァレンシアの火祭りとバルセロナ

(スペイン 1999年3月)


ヴァレンシア略年表
2. 混乱とレコンキスタ(国土回復運動)

  • 10世紀、ヴァレンシアはタイファ国(イスラム教徒の小王国)の一つによって支配されていた。「タイファ」とは、アラビア語で「分派」「党派」を意味する言葉。

    その頃、ヴァレンシアでは灌漑農業が発達し、米の栽培が盛んになっていた。食糧供給の増加に伴い、ヴァレンシアの人口は、約 1万5千人程度に成長した。

    ヴァレンシアのレストランでパエリャ(パエジャ)が登場するところ(スペイン) また、ヴァレンシアで盛んに栽培された米を使って、後の名物料理パエリャ(あるいはパエジャ)が産み出された。

    右の画像は、ヴァレンシア(スペイン)のレストランでパエリャ(パエジャ)が登場するところ。

  • 1009年、コルドバでの反乱を契機に、イベリア半島の各地に自立的な勢力が成立した。

    ヴァレンシアを支配下において自立したのは、かつてマジョルカ島・ミノルカ島の代官を務めたムジャーヒドだった。

  • 1021年、ヴァレンシアの人々はムジャーヒドを追放し、アーミル家のアブドゥル・アジーズを支配者として迎え入れた。

  • 1038年、かつてのヴァレンシアの支配者ムジャーヒドがヴァレンシアを攻撃した。

  • 1065年、レオン・カスティリア連合王国のフェルナンド1世がヴァレンシアを攻撃。

    野戦に破れたヴァレンシアは、レオン・カスティリア連合王国への貢納を約した。

  • 1066年、トレドを基盤とするズンヌーン家のアル・マームーンが、混乱状態にあったヴァレンシアを征服。

  • 1075年、トレドを本拠にヴァレンシアを支配していたアル・マームーンが死去。代官としてヴァレンシアを統治していたアブー・バクルが独立を宣言した。

  • 1081年、カスティリア出身のロドリーゴ・ディアス・デ・ビバルが、サラゴサを本拠とするフード朝の軍司令官(あるいは傭兵隊長)として働き始めた。

    彼こそは12世紀末に成立した中世カスティリアの英雄叙事詩「我がシドの歌」の主人公、中世スペインの英雄エル・シド(エル・シッド)である。

  • 1086年、トレドのアル・マームーンの孫アル・カーディルが、レオン・カスティリア連合王国の支援を得てヴァレンシアを征服した。

  • 1087年、バルセロナ伯がヴァレンシアを攻撃したが、ヴァレンシアを攻略することは出来なかった。

  • 1088年、バルセロナ伯が再びヴァレンシアを攻囲。しかし、ヴァレンシアは陥落しなかった。

  • 1089年、バルセロナ伯がヴァレンシアに侵攻。しかし、カスティリア王によって派遣されたエル・シドの接近を知ったバルセロナ伯は、バルセロナに撤退した。

  • 1092年、カスティリア王国のアルフォンソ6世がヴァレンシアを包囲。それを知ったエル・シド(カスティリア王国から追放されていた)がカスティリアに侵攻し、アルフォンソ6世は撤退を余儀なくされた。

    しかし、その年の10月、エル・シドが保護するヴァレンシアの名目上の君主アル・カーディルがヴァレンシアの人々によって殺害され、エル・シドの部隊がヴァレンシアから追放された。

    同年11月、エル・シドはヴァレンシアの北側にある丘の上に布陣し、ヴァレンシアに対する攻撃を開始した。(下の画像はヴァレンシアの北に広がる丘陵地帯の風景。)
ヴァレンシア北部の風景(スペイン)
  • 1093年春、エル・シドとヴァレンシアとの間に和約が成立した。

    しかし、同年7月、エル・シドはヴァレンシアに対する攻囲を再開した。

    ムラービト朝の部隊がヴァレンシア救援に赴こうとしたが、エル・シドの軍に阻まれ、ヴァレンシアに接近することが出来なかった。

  • 1094年、食糧不足に陥ったヴァレンシアが開城し、中世スペインの英雄エル・シドがヴァレンシアの支配者となった。彼はユダヤ人のワズィール(宰相)を起用し、内政を担当させた。

    ヴァレンシアの支配者となった中世の英雄エル・シドは、現在のカテドラル(大聖堂)の場所にあったモスクを、キリスト教のサンタ・マリア教会に変えた。

    同年10月、ムラービト朝の大軍がヴァレンシアを攻撃。しかし、城壁を出て奇襲をかけたエル・シドによって打ち破られ、ムラービト朝軍はヴァレンシア攻略をあきらめた。

  • 1099年、中世スペインの英雄エル・シドが死去。

  • 1101年、エル・シドの未亡人ヒメーナが守るヴァレンシアを、ムラービト朝の遠征軍が包囲。

  • 1102年、ムラービト朝の軍に攻囲されているヴァレンシアの救援の為、カスティリア王アルフォンソ6世(古都トレド奪還の英雄)が駆けつけた。しかし、ヴァレンシア防衛が難しいことを見てとった王の助言により、エル・シド未亡人ヒメーナはヴァレンシアから退去。

    未亡人ヒメーナは、夫の故郷カスティリアの都ブルゴス近くの修道院にエル・シドの遺骸を埋葬。

    他方、ヴァレンシアを征服したムラービト朝は、街のムスリム貴族を代官として、ヴァレンシアを統治させた。また、エル・シドが教会に変えた建物を、再びイスラム教徒のためのモスクとした。

  • 1116年、エル・シド未亡人ドーニャ・ヒメーナ死去。彼女の遺骸はエル・シドの墓の横に葬られた。

  • 1145年、ムラービト朝の勢力が衰えたのを見てとったヴァレンシア市民は、ムラービト朝の代官を追放。ヴァレンシアは独立の勢力となった。

  • 1147年、ムハンマド・イブン・マルダニーシュがヴァレンシアの支配者となった。彼の父サアドは、ムラービト朝に仕え、アラゴン・カタルーニャ連合王国のアルフォンソ1世を打ち破ったこともあった。

    しかし、ムハンマド・イブン・マルダニーシュはアラゴン・カタルーニャに貢納し、アラゴンやバルセロナの傭兵を雇い、ピサと通商条約を結んでヴァレンシアの港の使用を認めたりしていた。

  • 1158年、キリスト教諸国の支援を得たヴァレンシアの支配者ムハンマド・イブン・マルダニーシュは、アンダルシアにあるムワッヒド朝の拠点を攻撃した。

  • 1165年、ムハンマド・イブン・マルダニーシュ指揮下のヴァレンシア軍が、ムワッヒド朝軍に大敗を喫した。

  • 1171年、押し寄せるムワッヒド朝の大軍からヴァレンシアを守るために、ムハンマド・イブン・マルダニーシュは同盟関係にあるキリスト教諸国の軍をヴァレンシアに入れた。しかし、それに反発した市民が反乱を起こし、キリスト教徒の兵士達を追放した。

  • 1172年、ムハンマド・イブン・マルダニーシュが死去。彼の子供たちはムワッヒド朝に降伏し、ヴァレンシアはその支配下に入った。

  • 1229年、ヴァレンシア市民はムワッヒド朝の代官を追放し、地元のムスリム貴族ザイヤーンを君主に迎えた。

【参考】都市別ツアー


【参考】ホテル検索





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