東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

イタリア北部 1996年9月


黒備えのジョヴァンニ と
コシモ・デ・メディチ(コシモ1世)略年表

  • 1467年、ジョヴァンニ・ピエール・フランチェスコ・デ・メディチ誕生。国父コシモ(大ロレンツォの祖父)の弟の孫に当る。

    このジョヴァンニが、黒備えのジョヴァンニの父、つまりはコシモ・デ・メディチ(コシモ1世)の祖父である。(ややこしいので「祖父ジョヴァンニ」とする。)

  • 1585年、18歳になった祖父ジョヴァンニが、大ロレンツォに預けてあった財産の返還を要求した。しかし、財政状態の悪化していた大ロレンツォは全額を返還することが出来なかった。

  • 1494年、フランス王シャルル8世がイタリアに侵入。対応策に追われる不運のピエロ(大ロレンツォの子)を横目に、祖父ジョヴァンニは早々にシャルル8世と結んでいた。

    やがて不運のピエロ等のメディチ兄脈の人々がフィレンツェから追放された。メディチ家の弟脈に属する祖父ジョヴァンニは、姓をポポラーノと変え、屋敷からメディチの紋章を取り外した。

  • 1496年、祖父ジョヴァンニがフィレンツェの大使としてフォルリに着任し、ミラノ公爵の娘にしてフォルリの伯爵未亡人カテリーナ・スフォルツァと密かに結婚。祖父ジョヴァンニは「イル・ベッロ(美男子)」と呼ばれていた。

  • 1498年、ジョヴァンニ・デ・メディチ誕生。父は祖父ジョヴァンニ、母はフォルリの伯爵未亡人カテリーナ・スフォルツァ。

    この赤ん坊が、やがて著名な武将となり、「黒備えのジョヴァンニ」と呼ばれる。コシモ・デ・メディチ(コシモ1世)の父である。

    その数ヵ月後、祖父ジョヴァンニは戦場で得た病により死去。

  • 1499年、法王アレッサンドロ6世の息子であるチェーザレ・ボルジアが、軍を率いてフォルリに接近した。伯爵未亡人カテリーナ・スフォルツァは、未来の黒備えのジョヴァンニをフィレンツェのメディチ家に預けた。

    やがてフォルリは陥落し、捕えられたカテリーナ・スフォルツァはローマで監禁された。

  • 1512年、メディチ家がフィレンツェに復帰。

  • 1513年、大ロレンツォの息子であるジョヴァンニ・デ・メディチが法王レオ10世となった。

    法王(教皇)レオ10世 右の画像はラファエロが描いた法王(教皇)レオ10世。この絵はウフィツィ美術館で観ることが出来る。(レオ10世について、詳しくはココをクリック。)



  • 1515年、黒備えのジョヴァンニは、法王レオ10世の使者としてフランスに赴き、ヌムール公(ジュリアーノ・メディチ)とサヴォア公女との結婚の交渉を行った。

  • 1517年、黒備えのジョヴァンニは、法王レオ10世の使者としてフランスに赴き、ウルビーノ公(小ロレンツォ)とフランス王の従妹との結婚の交渉を行った。

  • 1519年、コシモ・デ・メディチ(後のコシモ1世)誕生。父は黒備えのジョヴァンニ、母はマリア・サルヴィアティ。母は法王レオ10世の妹ルクレツィアの娘だった。

  • 1523年、皇帝軍と法王軍とが、ボルゴフェルテで戦った。法王庁の軍人だった黒備えのジョヴァンニは、膝を撃ち抜かれて負傷。

  • 1525年、フランス王と皇帝がパヴィアで戦いを交えた。フランスに荷担していた法王庁の軍人である黒備えのジョバンニは再び傷を負う。

    黒備えのジョヴァンニ(ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネレ) 右の画像は、ウフィツィ美術館(フィレンツェ)で見つけた黒備えのジョヴァンニ(ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネレ)の肖像画。

    詳しくはウフィツィ美術館(フィレンツェ)のページを読んで下さいね。


  • 1526年、イタリアに侵攻してきた皇帝の軍の進軍を止めるべく、ポー川近くで戦っていた黒備えのジョヴァンニが砲弾を受けて重傷を負い、やがて死去。28歳だった。

    コシモ・デ・メディチは当時 7 歳だったが、父の死を知らされても涙も流さなかった。

  • 1537年、フィレンツェ大公アレッサンドロ・で・メディチが近習によって刺殺された。大公は嫡子を残さなかった。

    コシモ・デ・メディチ(コシモ1世)は、父「黒備えのジョヴァンニ」の形見の武具をまとい、フィレンツェに乗り込み、民衆の支持を集めた。

    下の画像は、チェッリーニによるコシモ大公の胸像。現在はバルジェッロ博物館に所蔵されている。(バルジェッロ博物館について、詳しくはココをクリック。)

    大公コシモ・デ・メディチ(コシモ1世)


    フランスの支援を得た反コシモ勢力の軍を、コシモ・デ・メディチが撃ち破った。皇帝カール5世は、コシモ・デ・メディチにフィレンツェ大公の称号を認めた。

  • 1539年、スペインのナポリ副王アルバ大公ドン・ペドロ・デ・トレドの公女ドンナ・エレオノーラと、コシモ・デ・メディチが結婚。

  • 1542年、ピサ大学の再建に着手。

  • 1555年、フィレンツェがシエナを支配下に収めた。

  • 1570年、法王ピオ5世により、初代トスカナ大公の戴冠を受けた。

  • 1571年、コシモ大公のガレー船がレパントの海戦に参加。

  • 1574年、トスカナ大公コシモ1世(コシモ・デ・メディチ)死去。55歳。


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