東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「夏のプロヴァンス」 (フランス)

エクサン・プロヴァンス、ラヴェンダー、ヴァレンソール、ムスティエ、セナンク、ゴルド、マルセイユ

15. マルセイユのノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院

マルセイユを見下ろすノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院

マルセイユ名物のブイヤベースを食べ、再びバスに乗り込む。そのバスの車窓からの眺めが下の画像だ。

フランス南部の街マルセイユの港から見上げたノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院

上の画像の左側、丘の上に塔のある建物が見えるかな。あれがマルセイユの守護聖人とされるノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院なんだそうな。私たちは今からあの寺院を見に行くわけだ。

石段を登ってノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院

ノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院の上に輝く金(メッキ)の聖母像を見上げながら石段を登る。あの寺院は海抜162メートルの場所に建てられているらしい。もちろん、途中まではバスで登ってきたんだけどね。

フランス南部の街マルセイユのノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院

しかし、暑い。気温34度は暑過ぎる。夏のプロヴァンスで、この石段はきつ過ぎるかもしれない。この季節に来たからこそ、ヴァレンソールセナンクの修道院で満開のラヴェンダーの花を見ることができたんだけどさ。

ノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院の歴史

このノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院の建物の建設工事が始まったのは西暦1853年のこと。あのフランス皇帝ナポレオン3世の即位の翌年のことだね。あの皇帝は建設工事や土木工事を色々とやっていたから、この寺院の工事も彼のイニシアティヴによるんだろうか。そしてこのネオ・ビザンティン様式の寺院の完成は西暦1864年のことなんだそうな。

フランス南部の街マルセイユのノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院の内部

19世紀の新しい建物ではある。でも、最初の寺院が建てられたのは西暦1218年のことだった。そして15世紀に改築されている。

西暦1516年にはフランス王フランソワ1世がこのノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院に来たらしい。その際、マルセイユの街の守りが不十分であることに気がついた。というわけで、マルセイユの港の沖にあるディフ島(イフ島)に城砦を、もう一つこの寺院のある場所にも城砦を築くことを命じた。

そのおかげで、西暦1536年のハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)によるマルセイユ攻囲にも守り通すことができたわけだ。といっても、このマルセイユをオスマン・トルコ艦隊の基地として使わせたから皇帝カール5世に攻められたんだけどね。

西暦1789年に始まったフランス革命は、このノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院にとっても苦難の時代だった。西暦1790年には民衆によって襲撃されている。そして西暦1793年には寺院は閉鎖された。フランス北部にあるモン・サン・ミシェル修道院などの財産も没収されていたんだけどね。そんな寺院が再開されたのは、フランス皇帝ナポレオンの時代、西暦1807年のことだった。

西暦1834年にはこの寺院が増築されている。でも、結局は西暦1853年に今の寺院の建物の工事が始まったというわけだ。ちなみに、このマルセイユのノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院と同じ19世紀後半に建てられたリヨンのノートルダム・ド・フルヴィエール教会モナコ公国の大聖堂も同じくビザンティン様式で建てられている。(そのモナコ大聖堂には、モナコ大公妃グレース・ケリーが眠っている。)

海難事故の生存者が聖母マリア(ノートルダム)に感謝

ところで、このノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院の中では、下の画像のような船の絵を無数に見ることができる。

フランス南部の街マルセイユのノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院で見た船の絵

これらの絵は、海難事故に遭遇しながらも生きて帰ることのできた人々が、聖母マリア(ノートルダム)に感謝を示すために掲げたものなんだそうな。ちょいと日本の絵馬に似ているようにも思えるよね。


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