ブルターニュの海辺のサン・マロフランス北部の世界遺産 モン・サン・ミシェルからバスに揺られて 30分ほど。到着したのはブルターニュ地方の海辺の街 サン・マロだった。![]()
そのサン・マロの海辺の様子が上の画像なんだ。今は 5月だから人影も少ないけど、夏には多くの人々が海で楽しむんだろうね。ちなみに、サン・マロの街の人口は 5万人ほど。それが夏には 20万人ほどにふくれあがるらしいよ。ホテルもレストランも混むだろうな。
中世の港町 サン・マロサン・マロという街の名前は、6世紀頃のウェールズの修道士の聖マクローに由来するらしい。といっても、街を築いたのは彼の先輩の聖アーロンと聖ブレンダンだったらしいけど。![]()
このサン・マロのある土地は、元々はランス川の河口の島だったそうな。12世紀頃、そのサン・マロに人々が集まり始めた。商人や船乗りたちだった。こうして中世の港町 サン・マロが成長し始めた。 サン・マロと百年戦争、ユグノー戦争そんな港町 サン・マロは、何度も戦火を蒙っている。フランスとイングランドとの百年戦争の際、サン・マロの街はブルターニュ地方にありながらも、イングランドと結んだブルターニュ公には従わず、フランス王の側に立っていた。故にブルターニュ公が何度もサン・マロを攻撃したらしい。15世紀の始めにイングランド王ヘンリー5世がトロワ条約を結んで百年戦争を優位に進め、イングランド軍がモン・サン・ミシェルを攻囲した時には、サン・マロの艦隊がモン・サン・ミシェルのフランス軍に物資を補給し、抵抗を続けさせている。その後、ジャンヌ・ダルクの活躍なども有って、フランス軍がイングランド軍を撤退させるに至ったわけだ。 16世紀後半、サン・バルテルミーの虐殺などでフランスのユグノー戦争が激化した時代には、サン・マロはユグノー(プロテスタント)の側に立っていた。故にローマ・カトリック勢力の攻撃を何度も受けたらしい。やがてブルボン家のフランス王アンリ4世がカトリックに改宗してパリに入城するまで、フランスはユグノー戦争の戦乱が続いたんだけどね。 イングランドの名誉革命によってオランダのオレンジ公がイングランド王ウィリアム3世として即位したんだけど、当時のフランス王ルイ14世太陽王はウィリアム3世の宿敵だった。そんなこんなで17世紀から18世紀にかけてイングランド軍がサン・マロを攻撃している。 ![]()
17世紀末にフランス王ルイ14世太陽王が始めたアウクスブルク同盟戦争の際には、このサン・マロの私掠船がイギリスの船を襲ったんだけど、イングランド銀行(今もロンドンの金融街シティにある)を設立して資金を調達したイギリスが艦隊を増強し、このサン・マロを攻撃したらしい。そんなサン・マロの防備を固め、要塞都市としたのが当時のフランスの名高い築城家だったヴォーバンだった。
中世の港町 サン・マロからパリバスに乗り込み、中世の港町 サン・マロを出発する。やがて レンヌの駅から フランスの誇る TGV に乗り込んだのが 18時過ぎ。フランスの首都パリのモンパルナス駅に到着した時には、20時を過ぎていたね。今夜の宿はパリにあるスクリブ・ホテル。非常に良いホテルだね。設備も良いし、スタッフの対応もきびきびしている。しかも、オペラ座の横にあるという場所もよいね。というわけで、久々に夜のパリを歩き、ディナーを楽しんでホテルに戻った。明日はパリを観光の予定だ。
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