フランスの世界遺産 モン・サン・ミシェルを遠望レンヌからバスに乗り込む。フランス北西部ののどかな田舎道を走ること 1時間ほど。やがて遠くの海辺に、フランスの誇る世界遺産 モン・サン・ミシェル(下の画像)が見えてきた。![]()
神秘の船があの島 モン・サン・ミシェルに死者の霊を運んでくると信じられていた。古代ケルト人の頃、モン・サン・ミシェルがモン・トンブ(墓の山)と呼ばれていた時代の話だそうな。
モン・サン・ミシェルを見上げたやがて、世界遺産 モン・サン・ミシェルの島に到着。バスを降りて見上げたモン・サン・ミシェルの眺めが下の画像だ。![]()
城壁に囲まれた島の頂上から、修道院の建物がはるか下の私たちを見下ろしている。
大天使ミカエルのお告げとモン・サン・ミシェルの修道院紀元前52年にパリ(当時の名前はルテティア)を征服した古代ローマ帝国。西暦43年にはブリタニア(イギリス)にロンドン(ロンディニウム)を築いている。でも、西暦410年には古代ローマ帝国はブリタニアから撤退し、やがて西暦460年にはガリア(フランス)北部のこのあたりでも古代ローマ帝国の兵士たちの姿を見なくなった。その後、このモン・サン・ミシェルの島は、古代ローマ文化を取り入れたケルト人(ブルトン人)の城砦となっていた。でも、やがてケルト人たちはアングロ・サクソン系のフランク人たちに襲われて壊滅したらしい。イングランド南部でアングロ・サクソン人に虐殺されたペヴェンシーのケルト系ブリトン人やウェールズ北部のケルト系グウィネズ王国と同じようなことが、ここでも起こっていたんだね。 そして西暦708年、アヴランシュの司教オベールの夢に大天使の聖ミカエル(サン・ミシェル)が現われ、そのお告げに従って司教オベールが島に築いた教会のが、今の世界遺産モン・サン・ミシェルの修道院の始まりだったそうな。 ついでながら、この大天使の聖ミカエルはちょいと出たがりかも。あちこちで姿を見せているらしい。例えば、西暦590年にはイタリアのローマで教皇グレゴリウス1世の前に姿を見せている。以後、その現場にあった古代ローマ帝国の皇帝ハドリアヌスのお墓が、サンタンジェロ(聖天使)城と呼ばれるようになったわけだね。
更には、あのオルレアンの少女ジャンヌ・ダルクにフランスを救うようにとお告げを伝えたのも、この聖ミカエル(サン・ミシェル)だったらしい。
モン・サン・ミシェルの修道院とイングランド征服王ウィリアム1世その後、フランス北部にはヴァイキング(ノルマン人)が進出し、西暦911年にはノルマン人ロロ(ロベール)にノルマンディーの土地が与えられた。その後もロロの子孫のノルマンディー公たちは、モン・サン・ミシェルの修道院を財政的に支援したらしい。そして西暦1066年にはノルマンディー公ウィリアムがイングランドに上陸し、イングランド征服王ウィリアム1世となった際には、モン・サン・ミシェルの修道院が支持したらしい。その支持に対する報奨として、モン・サン・ミシェルの修道院にイングランドで所領が与えられた。その所領の中にはコーンウォールにあるセント・マイケルズ・マウント(フランス語ならばモン・サン・ミシェル)も含まれていたらしい。海峡を挟んで似たような聖ミカエル(サン・ミシェル)の山があったんだね。
余談だけど、そのイギリス側のセント・マイケルズ・マウントには、アングロ・サクソン人と戦ったケルト系ブリトン人の英雄アーサー王の墓があるなんて話もあったりする。フランス側のモン・サン・ミシェルの話じゃない ・・・ とは思うんだけど ・・・ でも、ひょっとして。
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