その後のボルゲーゼ美術館シピオーネ・ボルゲーゼを枢機卿に引き上げた叔父のローマ法王パウルス5世は西暦1612年に亡くなった。そして西暦1633年、ベルニーニを芸術家として育て上げた人物の一人である枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼも亡くなった。でも、バロック美術に限らず古代からルネッサンスにかけての芸術作品を集めたボルゲーゼ家のヴィラには、その後も多くの人々が集まっていたみたい。 下の画像は枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼが亡くなって三年後の西暦1636年に J.W.バウルによって描かれたボルゲーゼ家のヴィラ(現在のボルゲーゼ美術館)の様子なんだ。 ナポレオンとボルゲーゼ美術館しかし、ナポレオンによるイタリア支配はボルゲーゼ美術館にも深刻な影響を与えたんだ。西暦1797年にローマ法王庁とナポレオンとの間に結ばれたトレンティーノ条約により、ボルゲーゼ美術館のコレクションの中から多くの芸術品がフランスに運び去られてしまったんだ。ボルゲーゼ美術館は更にナポレオンによって翻弄される。西暦1803年のこと、当時のボルゲーゼ家の当主マルカントニオ4世の息子カミッロが、ナポレオンの妹であるポーリーヌ(あるいはパオリーナ)と結婚させられた。その際にもボルゲーゼ家のコレクションの中から多くの芸術作品がフランスに売却させられてしまった。 こうしてボルゲーゼ美術館から流出していった芸術作品は、今でもフランスの都パリのルーブル美術館に展示されているらしい。 アントニオ・カノーヴァ作
こうして多くのものをボルゲーゼ美術館から奪い去っていったナポレオンなんだけど、間接的にではあれナポレオンがボルゲーゼ美術館に残していったものが一つだけある。 |