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東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
イタリア北部
1996年9月
フィレンツェ 略年表
- BC 8世紀、ヴェッキオ橋付近には、アルノ川の交通を支配するための古代エトルリア人の施設があった。
- BC 4世紀、ローマがトスカナを征服。
- BC 59年、フィレンツェにローマの植民市が建設された。
- AD 4世紀、キリスト教化が進んだ。
- AD 5世紀、西ゴート族の侵入。
- AD 6世紀、東ゴート族の侵入。
ロンバルド族による支配。イタリア半島南部との交通が遮断され、商業活動の制約されたフィレンツェは衰退した。トスカナの中心地はルッカに移った。
- AD 8世紀、カロリング朝による支配。フィレンツェが復興し始めた。
- AD 1115年、マティルダ女伯爵の死により、フィレンツェは自治都市となった。
- AD 12世紀、更に繁栄するフィレンツェの人口が3万人に達した。
- AD 13世紀、ゲルフ(法王派)とギベリン(皇帝派)が激しく争った。しかし、フィレンツェの人口は9万人に達した。
- AD 1339年、周囲のギベリン側の都市との戦いに敗れたフィレンツェは、ナポリを支配するアンジュー家の保護を求め、アテネ公グアルティエリオ・ディ・ブリエンヌの統治を受け入れ、その専制に苦しんだ。
- AD 1343年、アテネ公を追放し、自治を回復。
- AD 1387年、チョンピの乱。民衆派と目されたメディチ家が勢力を伸ばした。
- AD1433 - 1434 年、メディチ家追放(1回目)。
- AD 1434 - 1464年、コシモ・デ・メディチ(国父コシモ)による統治。
- AD 1469 - 1492年、ロレンツォ・デ・メディチ(大ロレンツォ)による統治。
- AD 1494年、メディチ家追放(2回目)。
- AD 1498年、サヴォナローラ処刑。
右の画像は、現在のシニョーリア広場。右の画像の下にある円板は、ジロラーモ・サヴォナローラの処刑の場所を示している。(詳しくはココをクリック。)
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- AD 1512年、メディチ家復帰。
- AD 1527 - 1530年、メディチ家追放(3回目)。
- AD 1537年、弟脈のコシモ・デ・メディチ(コシモ1世)がフィレンツェ大公となった。
右の画像は、チェッリーニ作によるコシモ・デ・メディチ(コシモ1世)の胸像。現在はバルジェッロ博物館に所蔵されている。
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- AD 1570年、コシモ1世がトスカナ大公となった。
- AD 1737年、メディチ家の最後の大公ジャン・ガストーネ死去。メディチ家断絶。ハプスブルグ・ロレーヌ家がトスカナ大公位を継承した。
- AD 1860年、サルディニア王国に併合された。
- AD 1861年、統一イタリア王国に統合された。
- AD 1865年、フィレンツェが統一イタリア王国の首都となった。
- AD 1871年、イタリアの首都の座がローマに移った。
- AD 1990年、フィレンツェの人口41万人。
フィレンツェによるトスカナの統一
フィレンツェとその他のトスカナの都市との戦いについては、ココをクリック。
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