チェスター大聖堂の身廊そして下の画像がチェスター大聖堂の内部で身廊に立ち、内陣方面を眺めたもの。
中央の奥には内陣の天井が見えているね。その下のスクリーンの向こうには聖歌隊席があるはず。もちろん後で聖歌隊席にも内陣の最奥にも行くつもりだ。他方で聖歌隊席スクリーンの上に塔があるんだけど、さっきも書いたように未完成の低い塔なんだけどね。
チェスター大聖堂に残る11世紀ノルマン時代の修道院の遺構その北側翼廊に残る11世紀のノルマン時代の建物の遺構、この大聖堂で最も古い部分が下の画像なんだそうな。
上のロマネスク様式の遺構は、西暦1093年に建てられた修道院の一部らしい。その修道院を建てたのは、イングランド征服王ウィリアム1世の家臣でチェスター伯のアヴランチェスのヒューだった。
修道院を建てたノルマン貴族のチェスター伯ヒューノルマンディー公ギョーム(後のイングランド征服王ウィリアム1世)の家臣アヴランチェスのヒューは、ノルマンディーに所領を持つ貴族だった。ノルマンディー公がイギリスに出航するにあたり、ヒューは軍船を提供したものの、彼自身は遠征には参加しなかったらしい。むしろノルマンディー公に信頼されていたヒューは、留守居役を果たしたんだそうな。ノルマンディー公がイングランド王となって5年後の西暦1071年にはアヴランチェスのヒューはチェスター伯となったんだ。そして西暦1093年にチェスター伯ヒューによってここに修道院が建立された。その修道院の一部が上の画像のように今のチェスター大聖堂の中に残っているというわけだ。 但し、チェスター伯ヒューが信仰心に篤い僧侶のような人物だったわけじゃない。彼はチェスターからも近いウェールズ北部を侵略したんだけど、ウェールズの人々に対する狂暴かつ残虐な振る舞いから「ヒュー・ザ・ウルフ(狼)」とも呼ばれていたらしい。 更に、チェスター伯ヒューは異様な大食いでもあったらしい。その結果、やがて太り過ぎて歩けないほどになり、「ヒュー・ザ・ファット(デブ)」とも呼ばれたんだそうな。 そんなチェスター伯ヒューは西暦1101年に修道士となった。その4日後に亡くなったんだそうな。当時は亡くなる前に修道士となることも多かったみたいだけどね。しかし、修道院を建て、修道士となったチェスター伯ヒューは、はてさて天国に行けたんだろうか。
カンタベリー大司教による十字軍兵士募集西暦1188年のことなんだけど、このチェスター大聖堂でカンタベリー大聖堂の大司教ボールドウィンによる十字軍兵士募集の説教があった。イングランド南部のカンタベリーを出た大司教ボールドウィンは、ウェールズの豪族の血をひくジェラルド・オブ・ウェールズ(ウェールズ南部のマノビア城で生まれた人物)の同行を得て、ウェールズ各地を周ったらしい。 ウェールズ南部のスランダフ大聖堂やウェールズ北部のバンガー(バンゴール)大聖堂などを含むあちことで十字軍兵士募集の説教をし、そしてこのチェスターにもやって来たというわけだ。 その大司教ボールドウィンの募集の旅のおかげで、ウェールズでは3千人もの十字軍への参加があったんだそうな。
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