東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

チェスターの週末(イギリス)

03. シティ・ウォールとオールド・ディー・ブリッジ

チェスターのシティ・ウォール(市壁)を歩く

チェスターの名所のひとつであるイーストゲートに登ったのは、ヴィクトリア女王ゆかりのイーストゲート・クロックを撮影するためじゃなかった。そこから中世のシティ・ウォール(市壁)を歩こうというわけなんだ。

イギリスのチェスターに残るシティ・ウォール(市壁)

上の画像が、チェスターのシティ・ウォール(市壁)。イギリスでは他にもイングランド南部カンタベリーにもシティ・ウォールがあるし、北部のヨークにもシティ・ウォールは残っている。古代ローマ時代のロンドンゆかりのロンドン・ウォールの遺跡もある。でも、このチェスターのシティ・ウォールが最も保存状態が良いんだそうな。

シティ・ウォールから見下ろした古代ローマ時代の遺跡

チェスターのイーストゲートの上からシティ・ウォール(市壁)の上を南に向かって歩く。間もなく左手(東側)に見えてくるのが、下の画像のような古代ローマ帝国時代の遺跡だったりするんだ。

イギリスのチェスターに残るシティ・ウォール(市壁)から眺めた古代ローマ時代の遺跡

上の画像に見える石柱の礎石は、古代ローマ時代の浴場のものなんだそうな。その上にある煉瓦造りの構築物は、古代ローマ時代のハイポコースト(床下のセントラル・ヒーティング)の復元なんだそうな。本物はチェスター市内のレストランの地下にあるらしい。ちなみに、古代ローマ時代の浴場跡はイギリス南西部のバースにもあるね。

チェスターを取りまくディー川にかかるオールド・ディー・ブリッジ

チェスターのシティ・ウォール(市壁)の上をイーストゲートから南に向かって歩けば、やがて下の画像のような風景を見ることになる。

イギリスのチェスターに残るシティ・ウォール(市壁)から眺めた中世の橋とディー川

上の画像に写っているのはオールド・ディー・ブリッジ。14世紀に架けられた橋なんだそうな。その橋がかかっているのはディー川。そのディー川の名にちなんで、古代ローマ人はこの街をディーヴァと呼んだらしい。

でも、その名前以上にこの川の存在は城塞都市に重要だった。この川から海を経て、船でチェスターとウェールズ北部カーナフォンとの連絡を確保することが出来たわけだ。

ウェールズ北部にはスノードン山を中心とするスノードニア国立公園があるんだけど、イギリスでは珍しく山がちなのがウェールズ北部。そんな土地で土地勘のあるケルト人にゲリラ戦を展開されれば、陸路での連絡は容易に遮断されたらしい。そこで船での連絡を重視したのは、古代ローマ帝国時代のアグリコラにも中世のエドワード1世にも共通していたみたい。

清教徒革命でのチェスターの籠城

今でこそ観光客が歩くのに最適なチェスターのシティ・ウォール(下の画像)なんだけど、当然ながら昔ははるかに重要な存在だったよね。

イギリスのチェスターに残るシティ・ウォール(市壁)

そんなチェスターのシティ・ウォール(市壁)の重要性が高まったのが、清教徒革命の時代だった。王党派と議会派が争ったイギリスの清教徒革命の際の戦いにおいて、チェスターは王党派の側についたらしい。そして西暦1644年から2年間にわたって籠城したんだそうな。

そんなチェスターをイギリス王チャールズ1世は2度も訪れている。でも、そんなイギリス王チャールズ1世の2度目のチェスター訪問の際、彼の軍はチェスター近くで議会軍に敗れたらしい。その敗戦をチャールズ1世はチェスターのシティ・ウォールの上から見ることになったんだそうな。西暦1645年のことだった。

その翌年の西暦1464年、王党派のチェスターは籠城を解き、議会派に開城している。やがて王党派は戦いに敗れた。そして西暦1649年にイギリス王チャールズ1世は処刑されたわけだ。


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