東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

ヨークと泉の修道院(イギリス)

09. ヨークのミクルゲート・バー、モンク・バー

ヨーク市内のシャンブルズ通りは中世の面影

ヨーク城のクリフォード・タワーもまさに中世の名残なんだけど、その他にもヨーク市内には中世の面影を残すものが多いんだ。

ヨーク市内に残るシャンブルズ通りは中世の面影(イギリス)

例えば、上の画像は見るからに中世をひきずるシャンブルズ通り。その歴史は14世紀まで遡ることが出来るらしい。かつてはこの通りに多くの肉屋さんが並んでいたんだそうな。

ヨークのシティ・ウォール(市壁)

ヨーロッパの歴史のある街はシティ・ウォール(市壁)に囲まれていることが多いよね。イギリスでも、首都ロンドンにはロンドン・ウォールという市壁の遺跡がある。イングランド南部の中心都市カンタベリーにも市壁が残っているね。チェスターにもシティ・ウォールがある。そんなシティ・ウォール(市壁)は、この歴史あるヨークにも残っているんだ。

ヨークの市壁 シティ・ウォールの上を歩いた(イギリス)

ヨークを取り囲むシティ・ウォール(市壁)の直径は 1kmほどなんだそうな。でも、全周では 4.5kmほどになるんだそうな。そのシティ・ウォールの上を歩いている様子が上の画像だ。もちろん、全周はしなかったけどね。

ヨークの城門 ミクルゲート・バー

ヨークを取り囲むシティ・ウォールには、いくつかの城門が残っている。その一つが下の画像にあるミクルゲート・バー。

ヨークに残る城門 ミクルゲート・バー(イギリス)

この城門 ミクルゲート・バーに西暦1460年に首がさらされたことがあった。その首の持ち主だった人物の名前は、第3代ヨーク公リチャード・プランタジネット

彼は当時のイングランド王ヘンリー6世と戦い、敗れて戦死したんだそうな。その後、彼の息子や孫たちは王となったものの、ランカスター家との戦いが続いた。つまり、イギリスのばら戦争を始めた人物の首がこのミクルゲート・バーにさらされたというわけだ。

ちなみに、上に書いたヘンリー6世は、後にテムズ川のほとりのロンドン塔に幽閉されて亡くなっている。その他にも多くの人々が悲劇の主人公となり、後のシェイクスピアに作品の題材を提供したというわけだね。

ついでながら、イギリスのばら戦争を集結させたのは、テューダー家のイングランド王ヘンリー7世だった。彼もヘンリー6世の後のヨーク家の時代にはウェールズ南部にあるペンブローク城で保護されたり、海外に亡命したり、苦労して生き延びた末に最後の勝利者になったんだね。

ヨークの城門 モンク・バー

そして下の画像は、ヨーク・ミンスター(大聖堂)近くにあるモンク・バー。

ヨークに残る城門 モンク・バー(イギリス)

城門の上の男たちが、石を投げ落とそうとしているのが見えるかな。中世にはこうしてヨークの街を守ったんだろうね。

ヨークをめぐる攻防

このヨークはシティ・ウォールに取り囲まれ、バー(城門)で守られているんだけど、歴史上実際にヨークが攻められたことがある。

例えば、西暦633年、ウェールズ北部のグウィネズ王国軍とマーシア軍が共にヨークを略奪したことがある。その頃のヨークにシティ・ウォールやバーがあったのかどうか、わからないけど。

西暦1069年、イングランド征服王ウィリアム1世に抵抗するアングロ・サクソン貴族と川を遡ってきたデーン人がヨークを攻撃している。

そして清教徒革命が起こると、西暦1643年からヨーク城の城代ヘンリー・クリフォードが王党派を率いてヨークにたてこもり、議会軍がヨークが包囲した。そして翌年、王党派はヨークを議会軍に明け渡している。

余談ながら、ヨーク城のクリフォード・タワーなんだけど、上に名前の出た王党派のリーダーのクリフォードさんが歴代のヨーク城の城代を務めていたことから名づけられたらしいよ。


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