東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

ヨークと泉の修道院(イギリス)

03. 泉の修道院 ファウンテンズ・アビー 跡地

ファウンテンズ修道院(アビー)のゲスト・ハウス跡

谷に向かう小路を下っていくと、小さな建物の廃墟が見えてきた。資料によれば、かつてはファウンテンズ修道院(アビー)のゲスト・ハウスとして使われていた建物の跡なんだそうな。

ファウンテンズ修道院のゲスト・ハウスの跡(イギリス)

かつてのファウンテンズ修道院(アビー)には、多くの貴族たちが様々な寄進をしていたから、そんな貴族たちがここを訪れた際に宿泊していたのかもしれないね。

ヨーク付近の修道院の衰退と復興

  • 7世紀から8世紀にかけて、ヨークシャー地方には多くの修道院が設立された。

  • しかし、9世紀にヨークシャー付近を支配したデーン人(デーン地方出身のヴァイキングの一派)は、古来から独自の宗教を信じており、キリスト教の修道院を略奪・破壊してしまった。

  • 1066年にイングランドの王位を得た征服王ウィリアム1世は、臣従を拒んでいたヨーク近辺のデーン系(ヴァイキング系)貴族を打ち破り、その土地をノルマン系貴族たちに与えた。

  • デーン人と同じくノルマンの血をひきながらも、長くフランス北部ノルマンディー地方に定住していたノルマン人たちはキリスト教に対する信仰心が篤く、荒れ果てたヨークシャーの修道院の復興に貢献したんだそうな。

壮大なファウンテンズ修道院(アビー)の廃墟

そして、壮大な建物の廃墟に到着。これがファウンテンズ修道院(アビー)の遺構なんだね。

ファウンテンズ修道院(アビー)の廃墟(イギリス)

かつては、たくさんの修道士達が祈りの生活を送っていた場所。しかし、イングランド王ヘンリー8世によってファウンテンズ修道院(アビー)が解散させられたのが 16世紀。今では廃墟となっている。

ファウンティンズ修道院(アビー)の解散

  • 1539年、ファウンティンズ修道院(アビー)の修道院長ブラッドリー卿が、イングランド王ヘンリー8世の発した修道院解散の書類に署名し、ここにファウンティンズ修道院は歴史の幕を閉じた。

    王妃との離婚とアン・ブーリンとの再婚などからローマ教皇と対立していたヘンリー8世にとっては、教皇の側に立つ修道院が国内にあることが政治的に脅威となっており、また修道院の財産が魅力的でもあったらしい。

    書類にサインした修道院長ブラッドリー卿は、王室からの年金を受け取ることになったんだそうな。

  • 1540年、ファウンティンズ修道院の土地・建物は、商人サー・リチャード・グレシャムに売却された。

    その息子サー・トマスは、修道院の土地・建物をステファン・プロクターに売却。

    ステファン・プロクターは、修道院の建物から多くの石材を運び出し、ファウンティン・ホールを建設した。

  • 現在、修道院の廃墟もファウンティン・ホールも周囲の庭園も、ナショナル・トラストが管理している。
補足: イングランド王ヘンリー8世によって解散させられた修道院は数え切れないけれども、代表的なものとしては以下かな。
補足2: フランスでも修道院が閉鎖されたことがある。といっても王権によるものではなく、フランス革命の後の革命政府によって、修道院の財産が没収されたんだ。世界遺産モン・サン・ミシェルの修道院フランス南部のセナンク修道院も閉鎖されてしまった。どちらも後に復活したのはイギリスの場合とは違うんだけど。イギリスでは修道院は復活しなかったからね。



清流の上のホールの遺構

下の画像は、ファウンテンズ修道院(アビー)の敷地内にある清流の上に建てられていたホールの遺構なんだそうな。

ファウンテンズ修道院(アビー)のホール遺構(イギリス)

ホールには、礼拝堂や台所も付属していたらしいよ。

ファウンテンズ修道院跡の清流にかかる石の橋

ファウンテンズ修道院(アビー)跡に流れる清流には、石の橋(下の画像)も残されていた。

ファウンテンズ修道院(アビー)の清流にかかる石の橋(イギリス)

谷間にあるという立地からか、ファウンテンズ修道院の周囲には清らかな水があふれていた。そんな修道院の谷を囲む斜面には、泉の修道院(ファウンテンズ・アビー)の名前の元となった泉もあるんだろうね。


泉の修道院 ファウンティンズ・アビー
  • 12世紀の前半に、ヨークの城壁近くにあるセント・メアリーズ修道院(アビー)の中で内紛が起こった。6世紀の聖ベネディクトに始まるベネディクト派の修道院では、既に規律が緩んでいたらしい。規律を正して昔の純粋な信仰生活を取り戻そうという改革派と、現状維持派との間に対立が生じたんだそうな。

  • 1132年10月、指導者リチャードを中心とする13人の改革派修道士達が、セント・メアリーズ修道院から追放された。彼らを支援するヨーク大司教トルスタンは、彼らをリポンの街に保護した。

  • その年の12月、13人の修道士達はリポンの街からスケル川をさかのぼること 3マイル(約 5km)の土地に、新しい修道院の建設を始めた。

  • その土地にはいくつかの泉が湧いていた。故に新しい修道院は「セント・メアリー オブ ファウンテンズ」修道院と名づけられた。それがこのファウンテンズ・アビー(泉の修道院)なんだそうな。



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