東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

アルザスとストラスブール フランス

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22. ストラスブール大聖堂外観 2.


宗教改革やフランス革命に翻弄された
ストラスブール大聖堂

古くからの歴史を持つストラスブール大聖堂なんだけど、16世紀からの大聖堂は歴史の荒波に翻弄されていく。本来はローマ・カトリックの大聖堂だったことは言うまでも無いんだけど、西暦1523年には市参事会の決定によってルター派の管理下に入ったんだ。

ところが西暦1550年には、攻勢を強めたハプスブルク家の圧力により、大聖堂はカトリックに復帰することとなった。しかし、西暦1561年にはルター派が多数を占める市参事会が大聖堂を取り返した。

その後、西暦1681年にはルイ14世のフランス王国がストラスブールを併合し、大聖堂ではフランス王ルイ14世臨席の許にカトリックのミサが執り行われた。フランス王家はアルザスでもカトリック優遇策を推し進めた。

しかし、18世紀末にはフランス革命が起こる。西暦1789年、憲法制定会議は教会財産の国有化を定め、ストラスブール大聖堂もカトリック教会の手を離れることとなったんだ。

革命フランスは次第に過激になっていく。西暦1793年にはストラスブール大聖堂は「理性の神殿」とされ、その西正面入口(下の画像)には「理性の神殿」という看板が掲げられることになった。

ストラスブール大聖堂の西正面入口(アルザス、フランス) ストラスブール大聖堂の西正面入口(アルザス、フランス) ストラスブール大聖堂の西正面入口(アルザス、フランス) ストラスブール大聖堂の西正面入口(アルザス、フランス)




革命帽をかぶせられたストラスブール大聖堂の尖塔

ストラスブール大聖堂から少し離れて見上げれば、高さ142メートルの尖塔(下の画像)が見下ろしている。この尖塔も時代の荒波を逃れることができなかったらしい。西暦1794年、革命フランス期のストラスブール市長モネは大聖堂の尖塔の解体を命じた。「尖塔は平等に対する侮辱である」という理由だったらしい。

ストラスブール大聖堂の西正面の塔を見上げる(アルザス、フランス) ストラスブール大聖堂の西正面の塔を見上げる(アルザス、フランス) ストラスブール大聖堂の西正面の塔を見上げる(アルザス、フランス) ストラスブール大聖堂の西正面の塔を見上げる(アルザス、フランス)

ところが大聖堂の尖塔は解体されなかった。というのも、当時の技術では解体が難しく、しかも塔の解体工事の財源が無かったから。その代わりに革命派が採用したのが、尖塔に革命派の人々がかぶるフリギア帽をかぶせるというアイデア。大聖堂の尖塔も革命の同志になったということかな。

ストラスブール大聖堂の尖塔の歴史

ついでだから、ストラスブール大聖堂の尖塔の歴史も書いちゃおう。大聖堂西正面に双塔が完成したのが西暦1365年。その高さは66メートルだった。しかし、市参事会はその高さじゃ満足しない。

双塔の上に高さ34メートルの八角形の鐘塔が完成したのが西暦1419年のこと。これで地上からの高さは100メートルになった。でも、市参事会はまだ不満足だった。

高さ100メートルの鐘塔の上には高さ32メートルの塔が増築され、更にその上には高さ10メートルの聖母子像が置かれたのが西暦1439年。高さ142メートルを誇る大聖堂の尖塔は、当時のヨーロッパでも最も高い建物となったんだそうな。ストラスブールの市参事会もようやく満足し、ここにストラスブール大聖堂は完成したわけだ。

【参考】都市別ツアー


【参考】ホテル検索


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