世界遺産 モン・サン・ミシェルを歩くというわけで、フランスの誇る世界遺産 モン・サン・ミシェルの修道院を見たわけだけど、次は下まで歩いて降りていこう。![]()
歩く道は古いし、石畳だったり石段だったりするから、下ばかりを見て歩くことになる。でも、ふと見上げれば、上の画像のような見事な建物が視界に入ったりするわけだ。
モン・サン・ミシェルの修道院、宗教戦争、フランス革命フランスとイングランドとの百年戦争もジャンヌ・ダルクの活躍などで終息し、モン・サン・ミシェルの修道院の建物の戦火による被害の修復も16世紀初頭には終わったんだそうな。その頃にモン・サン・ミシェルを訪れたフランス王フランソワ1世は、華やかな歓迎を受けたらしい。ところが、フランス王アンリ2世の未亡人カトリーヌ・ド・メディチの頃からフランスにおける宗教戦争(ユグノー戦争)が激化してきたんだ。西暦1572年にはパリのノートルダム大聖堂でブルボン家のアンリと王女マルグリット(マルゴー)の結婚式が行われた数日後に、サン・バルテルミーの虐殺が起こっている。 そんな状況下、モン・サン・ミシェルの修道院はローマの教皇を頂点とするカトリックの牙城だった。西暦1577年にはユグノー(プロテスタント)が巡礼を装ってモン・サン・ミシェルに入り込み、ユグノー軍を引き入れようとしたこともあったらしい。その企ては結局は失敗に終わったけれども。 やがてブルボン家のアンリがフランス王アンリ4世として即位し、カトリックに改宗してパリに入城し、ようやくフランスの宗教戦争(ユグノー戦争)は終結している。モン・サン・ミシェルを奪おうとするユグノーの陰謀もようやく終わったわけだ。 ところが、戦いの中でも守り抜かれたモン・サン・ミシェルの修道院は、やがて自ら崩壊していった。修道院長となった大貴族はパリを離れることなく修道院の経済的利益だけを吸い上げ、修道院の建物の崩れた部分が修復されることもなくなったらしい。そんな修道院は、やがて牢獄として使われるようになっていた。 そして西暦1789年、民衆がパリのアンヴァリッドを襲い、フランス革命が起こった。やがて修道院などの財産は没収され、フランス南部プロヴァンス地方にあるセナンク修道院や、このフランス北部のモン・サン・ミシェルの修道院も廃止されてしまった。そんな修道院が復元されたのは、西暦1863年のことだったらしい。
モン・サン・ミシェルの奥の細道そんな紆余曲折の歴史あるモン・サン・ミシェルの奥の細道は、やっぱり紆余曲折だった。地図を見ながら歩いても、どっちがどっちだかわらりゃしない。ともかく下に向かって歩けば、出口に行き着くだろうけど。![]()
上の画像は、そんなモン・サン・ミシェルの奥の細道の様子。私でもこんな状況なんだから、はるかに体格の良い欧米系の人ならば通れないこともあるかも。この下の通りに出れば、土産物屋さんが並んでいるんだけど。
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