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東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
カンパーニャ と ローマ・ヴァティカン イタリア
第四部 ローマ・ヴァティカン編
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D15. ボルジアの間(ヴァティカン博物館 -14.)
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ボルジアの間とローマ教皇アレッサンドロ6世
塩野七生さんの著す物語、その中でも特に「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」を好きな方ならば、ヴァティカン博物館の中で見たい場所といえば、いわゆる「ボルジアの間」だよね。
一般的なヴァティカン博物館の観光ルートは、ラファエロ作品の多い署名の間などから、ウルバヌス8世の礼拝堂を経て、システィナ礼拝堂へと向かうみたいなんだけど、そのシスティナ礼拝堂へ行く前に寄り道をすれば「ボルジアの間」を見ることが出来る。
その「ボルジアの間」には、かつてその場所の主だったローマ教皇アレッサンドロ6世(本名はロドリーゴ・ボルジア)の名(下の画像)が残されていたよ。
ルネッサンスの芸術を愛好した ローマ教皇アレッサンドロ6世(アレクサンデル6世)
様々な欲望を追求し、ローマ教皇庁を腐敗させたとも言われるローマ教皇アレッサンドロ6世(あるいはアレクサンデル6世)だけど、ルネッサンス期の人文主義的な芸術の愛好家でもあったんだ。
ボルジアの間の一角にある「自由七学芸の間」には、人文主義的な学芸を賛美する絵画が残されている。例えば右の画像の下部に見えるのは、「音楽」を賛美する絵画なんだそうな。
ちなみに、右の画像の上半分には、教皇アレッサンドロ6世の生家であるボルジア家の雄牛の紋章が見えているね。
教皇アレッサンドロ6世(アレクサンデル6世)の死と チェーザレ・ボルジアの落日
父であるロドリーゴ・ボルジアがローマ教皇アレッサンドロ6世(アレクサンデル6世)である間に、イタリアの覇権を握ろうとしていたチェーザレ・ボルジア。
しかし、西暦1503年の夏、チェーザレ・ボルジアの父である教皇アレッサンドロ6世(アレクサンデル6世)が病に倒れて亡くなってしまった。(右の画像はアレッサンドロ6世の遺骸が安置されていたといわれるボルジアの間の一角。)
しかも、折悪しくチェーザレ・ボルジア自身も病に倒れてしまい、危機の時に自ら築いた国を守ることが出来なかった。
結局は自らの領地を失ったチェーザレ・ボルジアは、ナポリに逃れるも、サンタルチア湾を見渡すカステル・ヌオーヴォに幽閉されてしまった。
やがてスペインでの幽閉を脱したチェーザレ・ボルジアは、義兄ナヴァーラ王を頼ってパンプローナへと逃れた。しかし、西暦1507年、スペイン軍との戦いにおいて、イタリア乱世の英雄チェーザレ・ボルジアは30年余りの短い生涯を閉じてしまったんだ。
チェーザレ・ボルジアの子孫
若くして亡くなったチェーザレ・ボルジアなんだけど、ナヴァーラ王家のシャルロット・ダルブレとの間に娘ルイーズを残していた。
やがて彼女はフランスのブルボン家につながるビュッセ男爵家(後に伯爵家)に嫁ぎ、その子孫は現代に至るまで続いているらしい。
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