パリでの散歩はテュイルリー庭園フランスの首都パリで家内はショッピング、私はアンヴァリッド 廃兵院でナポレオンのお墓参りをして過ごし、昼にはオペラ座の横のホテルで合流。レストランで食事を済ませる。![]()
午後はパリでのんびり散歩をして過ごそう。というわけで、やって来たのはルーブル美術館の脇にあるテュイルリー庭園(上の画像)だ。
フランス王家と革命とテュイルリー宮殿の庭園このテュイルリー庭園は元々はテュイルリー宮殿の庭園だった。そのテュイルリー宮殿は、フランス王アンリ2世の未亡人カトリーヌ・ド・メディチが西暦1563年に造営を命じたものなんだそうな。そして後にヴェルサイユ宮殿を建てた太陽王ルイ14世は、そちらへ移る前にテュイルリー宮殿に庭園を作り上げた。その庭園が今のテュイルリー庭園になっている。ルイ14世の王位を継承した少年王ルイ15世は、西暦1716年から6年間だけテュイルリー宮殿で過ごしている。でも、以後のフランス王家はヴェルサイユ宮殿に住んでいた。 西暦1789年、ルイ14世が創設したアンヴァリッド 廃兵院が襲われてフランス革命が起こった。やがてパリの人々はヴェルサイユ宮殿に押しかけ、フランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットをパリのテュイルリー宮殿に移している。 そして西暦1792年、オーストリアとの戦争を始めた革命フランスで王党派への反発から蜂起したパリの人々は、王たちのいるテュイルリー宮殿を襲った。テュイルリー宮殿を守っていたスイス傭兵隊は全滅し、王権は停止された。フランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの二人が処刑されたのは、翌年の西暦1793年のことだった。
その西暦1793年には、急進化したフランスの革命軍は長く独立を保ってきたモナコ公国を占領している。その後のモナコ公国はサルディニア王国の保護下に入ったり、ニースと一緒にフランスに割譲されたり、フランス革命の余波がしばらく続いたんだ。はた迷惑な話だよね。もちろん、その後は主権を回復して、第二次世界大戦後にはハリウッド女優グレース・ケリーとモナコ大公が結婚して話題にもなったわけだけどね。
フランス皇帝ナポレオンとテュイルリー宮殿西暦1799年、エジプト遠征から帰国したナポレオンは権力を掌握して統領政府を樹立し、その第一統領となった。テュイルリー宮殿はその第一統領、つまりナポレオンの公邸となっている。ナポレオンはフランス皇帝即位後もテュイルリー宮殿に住み続け、その増築も行っている。そのナポレオンが退位してブルボン王政が復活した後、フランス王ルイ18世もテュイルリー宮殿に住んでいた。ところが、西暦1830年の七月革命の際にはテュイルリー宮殿はまたもや蜂起した群集に襲われている。 そしてテュイルリー宮殿は西暦1848年の2月革命の際にも群集に襲われた。ちなみに、その時にテュイルリー宮殿を守っていたスイス傭兵隊は、フランス革命の全滅の二の舞を避け、宮殿を放棄したんだそうな。 西暦1852年、ナポレオン3世がフランス皇帝に即位した。そのナポレオン3世もテュイルリー宮殿に住んでいる。ナポレオン3世はテュイルリー宮殿を華麗に飾り立て、西暦1855年にパリを訪れたイギリスのヴィクトリア女王をもてなす場にも使ったんだそうな。 そして西暦1871年、プロシアと戦った普仏戦争でフランスが敗れ、ナポレオン3世の帝政が崩壊したフランスではパリ・コミューンが起こった。その混乱の中でテュイルリー宮殿は焼失してしまったんだ。
テュイルリー庭園が残されたパリ・コミューンの火災にもかかわらず、テュイルリー宮殿の建物の外壁だけは焼け残っていた。その外壁を使って、宮殿の再建も可能だった。でも、テュイルリー宮殿は王政や帝政のイメージが強かったらしい。というわけで西暦1883年にテュイルリー宮殿の外壁も解体され、残ったのが今のテュイルリー庭園(下の画像)というわけだ。![]()
でも、西暦2003年からテュイルリー宮殿の再建の議論が進んでいるらしい。建物は解体されたけど、ナポレオン3世の時代のテュイルリー宮殿の家具や絵画などは保管されているんだそうな。
パリからユーロ・スターでロンドンそんなわけでテュイルリー庭園をのんびりと散歩してすごし、夕方にはパリ北駅からユーロ・スターの列車に乗り込んだ。ロンドンに到着したのは19時過ぎだったかな。自宅に戻ったら早く寝よう。明日はシティのオフィスで仕事だからね。
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