トップページへ
東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
冬景色のトルコ
(1997年12月 - 1998年1月)
12. カッパドキア - セルヴェの奇観 (トルコ、小アジア)
スルタン・ハンの街に残るキャラバン・サライを見た後、12時前にバスに乗り込む。バスは山道を登り、やがて標高は1,200メートルを越え、雪が降ってきた。
1時半にはカッパドキア地方の街アヴァノスに到着。この街のレストランで昼食となる。野菜のスープ、サラダ、ケバブと野菜のポット煮、川魚の塩焼きと白ワイン。この川魚の塩焼きが美味かったね。食事を終えて外へ出てみれば、ドカ雪が降っていた。
ゼルヴェの奇観(トルコ、カッパドキア)
アヴァノスの街からバスで10分。ゼルヴェに到着。私達の目の前に、カッパドキアの「妖精の煙突」が立っている。
しかも、たくさんの要請の煙突が、白い雪で美しく化粧をしている。
ただただ見とれてしまう。こんな真冬に小アジア(アナトリア)の山の中まで来た甲斐があったねえ。
奇岩教会の中には、観光客のために内部を公開しているものもある。
右の画像は、公開されている奇岩教会の入り口だ。
|
左の画像は、奇岩教会の中の狭い階段。この階段を登れば、奇岩教会の上に出ることも出来る。危なそうだから登らなかったけどね。
なお、左の画像には目猫が入っているんだけど、「鼻の穴が広がって写っているからイヤだ !!」と本人が言うから仕方が無い。ま、下から撮っているからねえ。
|
奇岩教会の中を見物した後、寒さに軋む雪を踏みしめながら、小高い丘に登ってみた。その頂上から見渡したゼルヴェの風景が下の画像。あまりの風景に、何とも言えません。
イエンゼルヴェ(新しいゼルヴェ)
今では無人になっているゼルヴェなんだけど、かつては人々が暮らす村だった。ところが、侵食によって岩がもろくなり、崩壊の危険が出てきた。
そこで、ゼルヴェに住んでいた人々は、イエンゼルヴェ(新しいゼルヴェ)という村を作り、そちらへ移っていった。それが1950年代のことなんだそうな。その結果、このゼルヴェは無人となったわけだ。
カッパドキアと奇岩教会(トルコ、小アジア)
このゼルヴェを含むカッパドキア一帯には、1,000を越える奇岩教会が残されている。そんなカッパドキアと奇岩教会の歴史を整理してみたので、興味のある方は読んでみて下さいね。次のページにジャンプしたい方は、ココをクリック。カッパドキアの風景画像が、まだまだたくさん登場します。
カッパドキアと奇岩教会の歴史(トルコ、小アジア)
- 1-4世紀、古代ローマ帝国がキリスト教徒を迫害していた時代、安住の地を求めたキリスト教徒はカッパドキアの地に隠れ住み、奇岩の中に穴を穿って教会や住居にしていた。(特に古代ローマ皇帝ネロによる迫害の際には、多くのキリスト教徒がカッパドキアに隠れ住んだらしい。)
余談だけど、そんな古代ローマ帝国によるキリスト教徒迫害によって、キリストの使徒の一人である聖ペテロも処刑された。彼の墓の上に築かれたとされているのが、イタリアの首都ローマにあるサン・ピエトロ大聖堂だね。また、異教徒との戦いに対するキリスト教徒のヒーローでもある聖ジョージも古代ローマ帝国の迫害によって処刑されたキリスト教徒だったみたい。
- 5-6世紀、キリスト教を国境とした古代ローマ帝国での堕落した暮らしを嫌った人々は、純粋な信仰のためにカッパドキアで修道生活を始めた。
- 8-9世紀、ビザンティン帝国領内の東方正教会が厳しく偶像崇拝を禁止していた時代、聖像や聖画を守ろうとした人々がカッパドキアに逃れて来て隠れ住んだ。
- 12-13世紀、西欧諸国による十字軍の時代、ローマ・カトリックを信仰する十字軍勢力は、カトリック以外のキリスト教徒に圧迫を加えた。その圧迫を逃れた人々がカッパドキアに隠れ住んだ。
- 20世紀半ば、トルコ共和国とギリシャが条約を結んだ。その中でトルコ領内に住むキリスト教徒とギリシャ領内に住むトルコ系住民を、相互に移住させることが取り決められた。その結果、カッパドキアに住み続けていたキリスト教徒の姿が消えた。
|
Copyright (c) 2001 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。
|