東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
バルセロナで冬の休暇
(スペイン 1995年12月)
カタルーニャとバルセロナ(スペイン)の略年表
03. アラゴン・カタルーニャ連合王国の時代
- 1137年、バルセロナ伯ラモン・ベレンゲール4世が、アラゴン王家の王女ペトロニーラ(当時2歳)と結婚し、アラゴン・カタルーニャの連合王国が成立した。
以後もカタルーニャとアラゴンとは別々の王国であり続けるが、ラモン・ベレンゲール4世の子孫による同君連合が維持された。
- 12世紀後半、文書において「カタルーニャ」の名が登場し始めた。
- 1212年、アラゴン・カタルーニャ連合王国の王ペドロ2世が、カスティリア軍を支援し、トレド近郊でのラス・ナバス・デ・トロサの戦いに参加。イベリア半島に侵入してきたムワッヒド朝の軍を打ち破った。
- 1213年、異端のアルビジョワ派に対する十字軍を口実として南仏に勢力を拡大しようとするフランスのシモン・ド・モンフォール軍と、アラゴン・カタルーニャ連合王国のペドロ2世が戦い、ペドロ2世が戦死した。
以後、カタルーニャの南仏における勢力は大きく後退した。
しかし、父王の死後に王位を継承したハイメ1世は、63年間に渡ってアラゴン・カタルーニャ連合王国を統治し、「征服王」とも称される名君となった。ちなみに、ハイメ1世の母方の祖母は、ビザンティン帝国の皇女だった。
- 1229年、アラゴン・カタルーニャ連合王国のハイメ1世が、イスラム教徒の手にあったバレアレス諸島(マジョルカ島など)を占領した。この時、白馬にまたがったサン・ジョルディ(聖ジョージ)がハイメ1世の軍を助けたという話もある。
以後、カタルーニャの商人が、地中海貿易に進出していった。
- 1238年、ヴァレンシアがアラゴン・カタルーニャ王ハイメ1世によって征服された。以後、彼は「征服王」と呼ばれるようになった。
- 1243年、バルセロナにおいてユダヤ人の隔離政策が採られ、ゲットー(ユダヤ人居留区)が作られた。
しかし、歴代のアラゴン・カタルーニャ王は、豊かな富を握るユダヤ人を保護していた。
- 1258年、フランスのルイ9世とバルセロナ伯にしてアラゴンの王ハイメ(ジャウマ)1世との間にコルベイユ条約が結ばれ、以ってカタルーニャの独立が正式に認められた。
- 1265年、ハイメ1世治下のバルセロナにおいて「百人議会」が誕生した。以後、バルセロナは自治都市としての性格を強めた。
- 1266年、シチリア王マンフレディは、アンジュー家のシャルルによって殺され、シチリアはアンジュー家の支配下に入った。
- 1276年、修道院で修道士となるために旅をしていたハイメ1世は、途中で立ち寄ったヴァレンシアで死去。
- 1280年、アラゴン・カタルーニャ連合王国がチュニスを獲得した。
- 1282年、シチリア島民の反乱(「シチリアの晩鐘」)によってアンジュー家の支配は終わり、アンジュー家によって殺された故シチリア王マンフレディの王女コンスタンサと結婚していたアラゴン・カタルーニャ王ペドロ3世がシチリアを支配下に入れた。
1283年、ルジェ・ダ・リュリア率いるシチリア艦隊が、マルタ島(右の略図)付近でフランス艦隊を打ち破った。
- 1285年、フランス王フィリップ3世指揮下の軍がカタルーニャに侵入。アラゴン・カタルーニャ王ペドロ3世の弟でマジョルカ王ハイメ2世もフランス側についた。
しかし、ルジェ・ダ・リュリア率いるシチリア海軍の支援を受けたアラゴン・カタルーニャ王ペドロ3世の軍がフランス軍を打ち破った。
同年、ペドロ3世は病に倒れたが、その子アルフォンソ3世は叔父のマジョルカ王ハイメ3世を破り、マジョルカ島を含むアラゴン・カタルーニャ連合王国の再統一が完了した。
- 1291年、アラゴン・カタルーニャ連合王国とフランスとの間にブリノオラス条約が成立した。
- 1298年、アラゴン・カタルーニャ王ハイメ2世の命により、バルセロナにおいてカテドラル(大聖堂)の建築工事が始まった。
- 13世紀末、増加するカタルーニャの人口が50万人に達した。
- 1311年、ビザンティン帝国に雇われていたカタルーニャ人の傭兵達が、ギリシャの地にアテネ公国とネオパトリア公国を建国した。
- 1324年、ハイメ2世統治下のアラゴン・カタルーニャ連合王国が、サルディニア島を占領した。
しかし、ピサやジェノヴァなどの支援を得たサルディニア島民は、アラゴン・カタルーニャに対する反乱を続けた。
島民の反乱に対抗するために、多くのカタルーニャ人がサルディニア島に移住させられた。余談ながら、現在でもサルディニア島にはカタルーニャ語を話す人々のグループが生き残っているらしい。
- 1329年、海の聖母マリア(サンタ・マリア・デル・マール)教会の建設が始まった。
海の聖母マリア教会 (バルセロナ、スペイン)
右の画像は、海の聖母マリア教会(バルセロナ)の内部の様子。
海の男達の崇敬を集めるこの教会は、バルセロナの守護聖人の一人でもある聖エウラリアとの関係も深く、カタルーニャの民族主義の中心ともなっている。
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