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東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)
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16. カルパチア山脈の渓谷の街 ブラショフ
(トランシルヴァニア、ルーマニア)
旅行でバスや列車に乗ると、家内はついつい眠ってしまう。その結果、居眠り中の画像をパチリとゲットされちゃうわけだ。(例えば、サン・マリノ共和国からボローニャに戻る列車の中とか...。)
ところが、今回は反撃されちゃった。ついつい私も眠り込んでしまったバスの中、珍しく起きていた家内にシャッターを切られちゃったのが右の画像だ。でも、バスの旅って、こうして居眠りできるのも楽だよねえ。
ブラショフのホテルが寒々しい...
(トランシルヴァニア、ルーマニア)
夕方には、トランシルヴァニアの街ブラショフのホテルに到着。しかし、バカみたいに広々としたロビー(右の画像)には驚かされた。まるで体育館。
ところが、その巨大なロビーはガランとしているんだ。ソファーも少しだけ。殆どの売店は閉じているし、営業している店も商品は少ない。寒々しいね。
部屋には大きな冷蔵庫。でも、その中にはミネラル・ウォーターのビンが2本とファンタ・オレンジの缶が2本だけ。ま、空っぽでないだけマシかな。
ついでながら、部屋の風呂の蛇口をひねれば、出てくる水の色が赤い。しばらく流しっぱなしにしていると水は透明になったけど、つまり私たちは久々の客ってこと ??
カルパチアの王冠の街 ブラショフ
(トランシルヴァニア、ルーマニア)
ところで、ルーマニア第二の都市ブラショフなんだけど、トランシルヴァニアでも由緒ある街なんだ。13世紀には「王冠の街」と呼ばれていたらしいよ。
そのブラショフの街の中心にあるスファトゥルイ広場の様子が下の画像。正面遠くに見えるのが、14世紀末に建てられた「黒の教会」だ。
何故に「黒の教会」と呼ばれるかと言えば、戦火に焼かれて黒焦げになったことがあるから。時は17世紀後半、後退するオスマン・トルコ支配下のブラショフの街をハプスブルク家の軍隊が砲撃し、その際この教会は黒焦げになったんだ。
ちなみに、1691年にはハプスブルク家の皇帝レオポルト1世がトランシルヴァニア公となり、1699年にはハプスブルク家によるトランシルヴァニア支配を弱体化するオスマン・トルコが承認している。
串刺し公ヴラッド・ツェペシュとブラショフの商人たち
ちなみに、このブラショフはワラキア公ヴラッド・ツェペシュ(串刺し公)とも大いに関係があるんだ。1456年のことなんだけど、ヴラッド・ツェペシュは二度目のワラキアのヴォエヴォド(公)に即位した。
コンスタンティノープル(イスタンブール)を征服してビザンティン帝国を滅ぼしたオスマン・トルコと戦う軍事力を強化するために富国強兵政策を進めたヴラッド・ツェペシュは、ワラキア商人の保護・育成を目的として、ブラショフを中心とするトランシルヴァニアのドイツ系商人をワラキアから締め出そうとしたんだ。
その結果、彼はブラショフやシビウのドイツ系の商人たちと対立し、商人たちはヴラッド・ツェペシュとワラキアの公位を争っていた人物を支援しようとした。
怒ったヴラッド・ツェペシュ公はブラショフやシビウの周辺を襲撃し、多くの人々を捕らえて串刺し刑に処したんだそうな。
もっとも、ヴラッド・ツェペシュ公によって串刺しにされたのは、ブラショフやシビウの人々ばかりじゃない。トルコ兵たちはもちろん、ワラキア国内で彼に対抗したダネスティ家の人々やその他の人々など、とにかく多くの人々が彼によって串刺し刑に処されたみたいだね。
串刺し刑が珍しいことではなかった当時の東欧でも、彼のやり方は目立っちゃったみたい。とうとうヴラッド・ツェペシュは串刺し公(ツェペシュ)と呼ばれるようになったわけだ。
それから4世紀がすぎた1897年、イギリスの小説家ブラム・ストーカーが「吸血鬼ドラキュラ」を著わした。そのモデルがヴラッド・ツェペシュ(串刺し公)だと言われているね。
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旅行記 「春のルーマニア」 旅程表
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