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イタリア北部周遊
ミラノ、フィレンツェ、ピサ、チンクエ・テッレ、ジェノヴァ
(1996年09月)
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クレメンス7世 (ジュリオ・デ・メディチ) 略年表
- 1478年、ジュリオ・デ・メディチ誕生。大ロレンツォの弟ジュリアーノ・デ・メディチの庶子。父は既にパッツィ家の陰謀の際に殺害されていた。生まれてすぐに大ロレンツォの養子となった。
- 1494年、メディチ家がフィレンツェから追放された。ジュリオは、ジョヴァンニ(後の法王レオ10世)と共に欧州各地を転々とした。
- 1519年、ウルビーノ公ロレンツォ(小ロレンツォ)の死により、ジュリオがフィレンツェを統治することとなった。法王レオ10世の力により、彼は枢機卿になっていた。
- 1521年、法王レオ10世死去。ローマへの到着が遅れたジュリオ枢機卿は、法王になり損ねた。
右の画像はラファエロが描いた枢機卿時代のクレメンス7世。この絵はウフィツィ美術館で観ることが出来る。(ウフィツィ美術館について、詳しくはココをクリック。)
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- 1523年、法王ハドリアヌス6世死去。ジュリオ・デ・メディチ枢機卿が法王クレメンス7世となった。
- 1524年、フランス王フランソワ1世のイタリア侵入に際し、クレメンス7世は皇帝と手を切り、フランス王と結んだ。
- 1527年、皇帝カール5世の軍がローマを劫略。その頃、フィレンツェはメディチ家を追放した。
- 1528年、皇帝と法王クレメンス7世が和解。
- 1529年、法王と皇帝との間で結ばれた条約において、メディチ家のフィレンツェ復帰が保証された。
- 1530年、カール5世の戴冠式がクレメンス7世の手によりボローニャで行われた。やがて、皇帝の派遣した軍に対しフィレンツェは降伏し、メディチ家がフィレンツェに復帰した。
- 1531年、アレッサンドロ・デ・メディチがフィレンツェ大公となった。大公は法王クレメンス7世の庶子であるとの説もある。
- 1533年、カトリーヌ・ド・メディチとオルレアン公爵アンリとの結婚式が、クレメンス7世の手によりマルセイユでとりおこなわれた。フランソワ1世の次男であるアンリは、後にフランス王となる。
- 1534年、法王クレメンス7世死去。
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