イタリア北部周遊
ミラノ、フィレンツェ、ピサ、チンクエ・テッレ、ジェノヴァ
(1996年09月)
ミラノ公爵家 略年表
(ヴィスコンティ家とスフォルツァ家)
1277年、大司教オットーネ・ヴィスコンティが、ミラノの支配者となった。
14世紀初頭、マテオ・ヴィスコンティが、神聖ローマ皇帝のミラノにおける総督となった。
1395年、ミラノの勢力を拡大したジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが、神聖ローマ皇帝よりミラノ公爵の世襲称号を得た。(彼の娘ヴァレンティナがフランスのルイ・ドルレアンと結婚したことが、後に
フランス王ルイ12世
・
フランソワ1世
がミラノ公国の相続権を主張する根拠となった。)
1402年、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが、ペストのために死去。
フィレンツェ侵攻
を準備している最中のことだった。ジョヴァンニ・マリア・ヴィスコンティがミラノ公爵位を相続。
1412年、残虐な支配者だったジョヴァンニ・マリア・ヴィスコンティが暗殺され、弟のフィリッポ・マリア・ヴィスコンティがミラノ公爵位を継承した。(彼の娘で相続人でもあるビアンカ・マリアと結婚していたのが、フランチェスコ・スフォルツァ1世。)
1424年、ムツィオ・アッテンドロ・スフォルツァ死去。高名な傭兵隊長だった。(「スフォルツァ」は「力づくで成し遂げる者」を意味する。)
1447年、フィリッポ・マリア・ヴィスコンティ死去。共和主義者がミラノの政権を握った。
1450年、フランチェスコ・スフォルツァ1世がミラノの権力を掌握し、ミラノ公爵となった。(彼はヴィスコンティ家の相続人であるビアンカ・マリアと結婚していた。)
1466年、ガレアッツォ・マリア・スフォルツァがミラノ公爵位を相続。同じ年に
スフォルツェスコ城
が完成している。
1476年、ガレアッツォ・マリア・スフォルツァが共和主義者によって暗殺された。当時 7 歳だったジャン・ガレアッツォ・スフォルツァがミラノ公爵位を相続した。叔父のルドヴィコ・スフォルツァ(通称イル・モーロ)が摂政となった。
1480年、摂政となったイル・モーロが公爵である幼少の甥から実権を簒奪した。
1494年、イル・モーロの支持を得たフランス王シャルル 8 世がイタリアに侵入し、
ナポリ
を攻略した。王の支援の許に、イル・モーロがミラノ公爵位を奪った。
1495年、イル・モーロがフランスと敵対し、教皇側(
ローマ教皇アレッサンドロ6世
)に寝返った。
1499年、
フランス王ルイ12世
がミラノを攻略。
下の画像は、
フランスのロワール河畔にあるブロワ城
。ルイ12世は、この城をゴシック様式に改装した。また、城にはルイ12世の紋章であるサラマンダー(トカゲ)の図匠が残されている。
1500年、ミラノを奪還しようとしたイル・モーロが敗れ、フランス軍に捕えられた。
1508年、フランスに捕えられていたイル・モーロが亡くなった。
1512年、イル・モーロの息子マッシミリアノ・スフォルツァが、法王ジュリオ2世の支援を得て、ミラノ公国を奪還した。しかし、直ちにフランスがミラノを攻略した。
1513年、
フランス王ルイ12世がミラノ支配を放棄
。
1515年、マッシミリアノの弟フランチェスコ・スフォルツァ2世が、ハプスブルク家の皇帝カール5世の支援の許にミラノを奪還した。ハプスブルク家のカール5世は、ライバルである
フランス王フランソワ1世
がミラノを獲得することを阻止する必要があった。
1535年、フランチェスコ・スフォルツァ2世が、相続人を残さずに死去。ミラノはハプスブルク家スペインの支配下に入った。
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