東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

アゼルバイジャン 2000年3月

アゼルバイジャン 略年表
BC 30c マンナイ族とメディア族が栄えた。
BC 10c メディア王国がマンナイ王国を滅ぼした。

クルド族はメディア族の末裔だと説もある。
BC 8c スキタイ族が侵入してきた。
BC 7c 預言者ゾロアスターが生まれた。
BC 550 アケメネス朝ペルシアがメディア王国を破り、アゼルバイジャンを支配。
BC 4c アレクサンダー大王がアゼルバイジャンを支配。
大王の死後はセレウコス朝の支配下に入った。
AD 1c キリスト教が伝来。
AD 115 ローマから発してイタリア、更には地中海全域に勢力を拡大し、ついには今のアゼルバイジャンにまで進出してきたローマ軍は、ペストに苦しんだ末に撤退した。
AD 226 ササン朝が成立。
AD 391
- 400
フン族による蹂躙。
AD 409 ササン朝の王イェスディギルドはキリスト教を公認し、教会の建設を認めた。
AD661 アラブ人がアゼルバイジャンを征服。
AD 7-8c イスラム教徒の迫害を逃れ、多くのゾロアスター教徒がインドに移住した。

インドでは現在も15万人のゾロアスター(パルシスム)教徒がいるといわれる。
AD 11c後 セルジューク・トルコがアゼルバイジャンに侵入。

その後、アゼルバイジャンのトルコ化が進んだ。
AD 1225 モンゴルがアゼルバイジャンを征服。
AD 14c ティムールがアゼルバイジャンを征服。
AD 1501 アゼルバイジャンにサファヴィー朝が成立。

サファヴィー朝のシャーであるイスマイール 1 世は、シーア派イスラム教を国教と定め、スンニー派を信奉するオスマン・トルコと対立した。

イランを統治したサファヴィー朝は、次第にイラン化し、アゼルバイジャン的性格を失った。
AD 1724 ロシアのピョートル大帝がアゼルバイジャン北部を併合した。
AD 1736 ペルシアがアゼルバイジャン北部を征服。
AD 18c後 アゼルバイジャンに諸汗国が分立。
AD 1796 ロシア軍がアゼルバイジャンに侵攻。しかし、皇帝の死により撤退。
AD 1813 ロシアがペルシアを破り、アゼルバイジャン北部を支配。

ロシア支配下のアゼルバイジャンからは、多くのスンニー派イスラム教徒がオスマン・トルコに移住した。その結果、アゼルバイジャンのシーア化が進んだ。現在では、アゼルバイジャンの国民の 4分の3 がシーア派イスラム教徒となっている。
AD 1826 ペルシアがロシアに敗れた。
AD 1828 トルコマンチャーイ条約により、ロシアとペルシアとの間の国境線をアラス川とすることが定められた。
AD 1905 アルメニア人とアゼルバイジャン人との間で対立が激化。
AD 1917 ロシアにおいてボルシェヴィキ革命。
AD 1918 イスラム教を信じる民族主義者により、アゼルバイジャン人民民主共和国の樹立が宣言された。
AD 1920 赤軍がアゼルバイジャンに侵攻。
AD 1922 アルメニア・アゼルバイジャン・グルジアによるトランスコーカシア・ソビエト社会主義連邦共和国としてソ連に加盟。
AD 1936 スターリン憲法により、アゼルバイジャン・グルジア・アルメニアは、それぞれにソ連邦内の共和国となった。
AD 1941 ドイツ軍がチェチェンを占領。アゼルバイジャン兵士はドイツと戦った。
AD 1989 アゼルバイジャンは主権を宣言した。
AD 1990 アゼルバイジャン人とアルメニア人との間の紛争を契機に、ソ連軍(内務省部隊)の戦車がバクーに突入し、 137 人のアゼルバイジャン人が命を失った。
AD 1991 アゼルバイジャンとアルメニアとの間で全面戦争が勃発。

同年、アゼルバイジャンは独立を宣言した。

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【参考】都市別ツアー





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